Paris-14
・ オルセー美術館−1 昨日、印象派の宝庫・オルセー美術館に行ってきました。昔のオルセー駅と構内ホテルを改造した美術館です。20年前にパリ来た時にはまだオープンしていなかったので、中身の作品は見ているのですが、ぼくには新しい美術館です。
1900年、つまり100年前に造られた建物を見てすぐ思ったことは、芸術的にも構造的にも力を抜いてない「一級品」であり、ホテルに使用していた部分も宮殿と間違えるほど立派なインテリアでした。特に感心するのはセーヌ川側の反対側にルーブル宮殿がある為、セーヌ側に同じ宮殿風のデザインにして、当時は工場風のガラスと金属で作られたプラットホームの天井ドーム部分を隠している事。つまり町が個々の建築の集りと言うよりは、全体の中にある個々と言う街づくりをしていたのは、設計した国立美術学校の教授V.ラルーは勿論の事、市民全体の美意識のレベルが高かったのだと思います。しかし1日200本の列車が発着していたオルセー駅も電化に伴って38年間で鉄道駅としての短い生涯を閉じてしまい、その後は第二次大戦のパリ解放時に捕虜の一時受入れ所やオーソン・ウェルズの映画の撮影所、劇場、公認競売所になったりしていました。
ついに1986年に美術館として生まれ変わり、当初は隠されて造られたガラスドームが今回の改造で自然光を入る、異常なほど広い高い一番のメイン会場になっているのが歴史の悪戯のようでした。
Paris-15
・ オルセー美術館−2 考えてみると我が家は父が油絵を描き、上の兄姉が印象派を好きだった為に、家には美術書は多くはなかったのですが葉書大のキャンバス形をした印象派の複製が異常なほどたくさんあるウソ・マネ美術館の中で育ちました。それは写真の表面に筆のタッチがレリーフ状に作られていて、当時としてはなかなか凝っているモノです。そんな影響か門前の小僧的に小学校の頃から画家の名前や作品名を知っていて、特にピサロの「赤い屋根の家」は誰かが間違えて2枚買った為に、好きでもない絵だったのですがその無駄さがインプットされてしまい、20年前に初めて印象派美術館で本物を見た時には遠くからでも判ってしまいました。ピサロは幅広い交流からゴーガンやルノアールを仲間に紹介したりするグループの父親的存在であり、印象派が成長する上で重要な位置にいたのですが、今回も「赤い屋根の家」の前で立ち止まり、好きじゃない絵の再確認をしました。
Paris-16
・ 印象派 印象派の魅力は今までの見たものを絵にすることより、感じたものを作品にする、ルネッサンス以来の絵画革命にあると思います。
この時代は写真の発明等で絵画の存在が大きく変わってしまっているのに、パリのサロンを牛耳る大先生達は昔ながらの写実の絵を書き続け、新しい描写を模索する作家(印象派)を拒否していました。印象派のスタートはそのパリのサロンを落選した作品の集りだったのが面白く、今やフランスを代表する芸術が開花した時代だと思います。その落選させた審査員も画家だったのですが、歴史のフィルターを通したら、現在は全然表に出て来てないのが痛快です。
歴史と言うのは水戸黄門のように必ず悪い代官を懲らしめてくれるのが、我々無名作家の励みになります。現在もパソコンと優秀なカラー・プリンターの出現で、アートが大きく変わりつつあるのに、日本の美術界には印象派の絵のような作品を100年経った今も描きつづけ、その地位を得る為、守る為に金をばら撒き・搾取する悪い代官がごろごろしています。今から100年後の黄門様の懲らしめが楽しみです。
・ 「ビンティ」に 「パリ通信」を送っていたネパールにいる高津さんの「ビンティ」www.binti.net のホームページで「番外編・パリ通信」の形で紹介してもらえる事になりました。ネパールの生活・文化の違いや写真・インド等の旅行記もあるので、ぜひ開いて読んでください。もう誤字脱字は勿論、途中で辞めることが許されなくなりました。
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・ 大学で教えていた時に、コンクールで落ちたり、大きな美術界に壁を感じている学生や、今から大先生にゴマを擂って進んでいくのが当り前な世界と思っているバカがいると、この落選からスタートした印象派の話と作家を落選させて歴史から落とされた審査員(大先生)の話をしました。
アートは良い作品を作る努力は人一倍するけれども、義務的な苦しい修行ではないので、徹夜しても何しても自分の作品の完成しか頭に無く、ただ制作が楽しいのが第一だと考えます(理想的に言うと)。
残念ながら日本の大学内でもまだ古い師弟制度があり、何もわからない学生に技術を取得する職人的な技術教育をし、受験でしか役に立たない石膏デッサンや立体制作をまだやっているのが現状です。それは目に見える「技術」は教えやすく自他共に進歩が見えるのですが、「感覚」を教えるのは目に見えない上、作品制作を通じて学生自身と多くの会話を持つ必要があるので難しい教育に成ります。そこに学生との会話がないと自分の個性から湧いた感覚ではなく、ただ目立ちたい「わがまま」や世の中の「流行」を自分の感覚と勘違いした制作に走ってしまいがちです。
印象派の作家たちはサロンに入選する為の作品ではなく、落選させられようが誰が何と言おうと自分が心から感じている事を作品に表したように、それを信じていることが自分の芸術が生まれる一歩だと思います。(何か、先生みたいなことを言ってる…)
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ローマに帰国 ニューヨークの展覧会に行った時と今回のパリ滞在と気持ち的に違うのは、ぼくの身元がシテ・デザール(国際芸術都市)に居ることで、パリ市で保証されていること。そしてパリはヨーロッパ内なので距離的に近い(空路2時間)安堵感があるのかもしれません。価格的にも安い切符ならば往復2万円前後なので名古屋から所沢に新幹線で帰る感じです。更にヨーロッパ統一で国境が消え、パスポート・コントロールが無くなり、気持ち的にも距離が短くなっています。明日はローマに帰って展覧会の最終的な準備とアトリエにある作品をパリに輸送する手続きをします。滞在は1週間ぐらいかな。
Paris-19
・ ローマ着 25年も出たり入ったりしている空港なので、出口への通路も迷いもなくスイスイと歩いて出られるし、何を聞いても何を聞かれても判ってしまう安堵感。市内に入ると道歩く人たちや地下鉄で働く作業員のどうでもよい会話まで耳に入って来てしまいます。久しぶりに成田に着くと、目に映る電車の中吊りの広告や道路の看板の日本語を片っ端から読んでしまうのと何か似ています。小さなボディバッグ一つでローマの我家に着、マイホーム、スイートホーム。友達のセレーナが支払いと植木に水をやっていてくれたので、毎回、安心して留守に出来ます。そのセレーナからすぐに連絡があり3人で買い物に出て、話題はパリでの出来事、留守中のローマの話をしながら、食料品を買って来週のパリ行きの予約をしました。夕方にセレーナと別れて家に戻って来ると二人とも急に疲れを感じ、しのぶはそのまま寝てしまい、ぼくも強い脱力感に襲われました。翌日も普通に起きて朝食を取ったのですが、すぐに眠くなってしまい夕方まで爆睡。パリでは自分達の部屋で気ままに暮らして、リラックスしていたと思っていたのですが、新しい暮らし、判らない言葉、展覧会の準備、色々な面で緊張していたのかな、と長い眠りからの目覚めのコーヒーを飲みながら、自分たち自身を分析しました。お互いに「デリケイトな人間」であることを確認。
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サングラス あの眠さ、疲れはアルプスを越えた10度差の気温の変化にもぐったりしたのかもしれません。空港に着いて感じた熱風には国を間違えた感があり、イタリアも丁度「真夏日」に当たってしまい、更に日差しの強さにはフランスとの差を感じます。
ぼくはイタリアでは常にサングラスをしていますが、日差しの強さの為にかける以外に、「イタリア人の目」に対してしている意味もあります。日本人はジロジロ見るのは失礼になるので、一瞥で全ての情報を得る訓練(?)がされていますが、イタリア人の場合は、子供は勿論のこと、大人、おじいさんに至るまで、興味があるモノに対しては穴が開くほど見つめます。その見つめ方は、こちらが見つめ返しても目をそらせることはなく、次の新しい興味が現れるまで視線を離してくれません。その点、フランスは日差しも緩く、「視線」も色々な人種がフランス人として住むパリでは、それを感じずに生活できました。サングラスをする機会が少なくなったけど、逆に道を聞かれたり、店員と間違えられることもしばしばあります。
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サングラス 2 もう3年前になってしまうのかな? 大学の先生の仕事で日本に住むことになったけど、日本で家を借りて住むのは23年ぶりのこと。家を借りて落ち着くまで外人並みに難航したけど、その名古屋郊外の小さな町で今から考えると日本人的ではない行動を取っていたようです。
マンション探しで不動産屋と口座を開くのに銀行に行ったら思ったより待遇が良くなく、わが祖国のその不親切さに失望しました。でもしのぶに言われて見ると、歳相応ではないサングラス、真赤なポロシャツ、ふてぶてしく見える態度、おまけに変な日本語が災いしたのでは・・・、と言われて鏡を見ると、受け入れたくないけど我ながら「嫌な奴」に見えるから悲しい。後日、銀行の入り口を見たら「サングラスとヘルメット」をして入らないよう、書いてありました。大学の教室にもサングラスをして入って行ったら、最初は誰も学生が話し掛けてくれなかったのも、それだろうな。
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・ 日本人の血 アトリエの近くの超ローマ・ファンの新聞屋〔キオスク〕の親父に会ったら、「来期はバティストゥータがローマに入団したし、ナカタも2年目でチームに慣れるので今度は優勝だな!」。ぼくはサッカー好きだけど、どこのクラブチームのファンでもなかったのに、ローマに中田が来たら急にローマファンになってしまいました。海外で外国人に囲まれてやって行くたいへんさが特に判るので応援したくなるのかもしれません。
ワールドカップ等の試合は、手に汗を握って必ずイタリアを応援します。何年か前のバレーボールの決勝では強敵オランダに競り勝って優勝した時は、冷やしてあったシャンペンで乾杯するほどの熱の入れようでした。しかしその翌年かな? 別なバレーボールの試合で「日本−イタリア」と言うどっちを応援して良いのか判らないのゲームを観ました。伊チームのメンバーは名前も、クラブチームの所属も、歳も、ある選手は彼女や奥さんの名前も知っているバレーボール通なのに、日本人チームは誰一人知らない初対面(?)。いざ試合が始まると同じ血が騒ぎ、日本チームは背番号で「5番、打て!」「3番、拾えー、頑張れ」と言う反面、伊チームには名指しで「ゾルジ、失敗しろ !」「決めやがって、ジャーニのバカ !!!」。他人には聞かせられない罵声の連続。結局、日本は負けて予選落ち、イタリアは決勝リーグに進み、ぼくは日本戦が無かった如く3日後の試合はイタリアチームを応援していました。
Paris-23
・ 日本人の血、対仏 先日行われたモロッコのハッサン国王サッカー杯のフランス対日本は、パリにいたら見られたけど、試合があったことはインターネットのニュースで知りました。今のぼくはフランス愛国党で、日本の選手よりフランスの選手の方がイタリアのリーグ戦で活躍し、名前からプレースタイルまで良く知っているけど、やはり日本を応援するだろうな。イタリア人の移民が外国で苦労する映画とか、日系移民の日本に対しての強い気持ちが、最近は変に解かってしまう所があり、更には「孫までいるのにのんびり中国で暮らせばいいのに」と昔は考えていた中国残留孤児の話に、最近は本人と一体化してしまう自分が恐くもあります。日本の新聞で「君が代」「日の丸」問題が重大のように書いてあるけど、国際的に見たら「ただの目印」の問題に多く時間を割くより、「これが我が祖国です!」とその中身に胸を張って紹介できる日本に造って欲しいと思うよな。仏国歌「ラ・マルセイユ」は日本で知られていて評判の良い国歌だけど、内容はけっこう残酷な詩だから、平和になった今になって問題になってきています。その部分は人間が作ったと言うより歴史が作っている部分があるから・・・。(サッカーの話で止めておくべきだったな)
Paris-24
・ ローマ ローマに帰ったらパスタの美味しいレストランに食事に行って、友達とフランス語のR風のイタリア語でパリを語って、海にも行って・・・。とんでもない! 毎日、アトリエで梱包の準備と輸送中の保険の見積りを出す作業で忙しくしています。特にパリの展覧会用の作品2点の仕上げが間に合わず、昨日夜まで仕事をして何とか終わり、今日の午前中に荷物を取りに来たのでギリギリセーフ。一人で企画・製造・販売業はたいへんです。ポスターと案内状は名古屋のY君のデザイン事務所で今回も作ってもらっているけど、日本の個展だったら絶対にOKをださない「加藤朝美彫刻展」のデカデカ漢字入りのポスターです。「漢字が新しい」今のパリだから制作出来るポスターかもしれません。今日の午後、ぼくらもまたパリに出発します。